彼とはいまどき珍しい家族ぐるみの付き合いで、自分と対照的な道を歩みながらも常に連絡を取り続けていた。自分が早々にホームスクールを始めたのと対照的に、彼は家族の方針もあり自分から見るといわゆる優等生であった。途中自分が海外にいたこともありやや疎遠になったが、帰国後も変わらず連絡を取り合った中だった。そして去年、自分は大検という道から大学に合格し、彼は浪人した。
自分にとって大学という機関はなぜか幼いころから変わらず魅力的であり続け、願望もあった。
だからどれだけ途中の義務教育を飛ばしていたとしても、大学に行きたいというモチベーションを常に一定以上に保ち続けたことで、ここにいて、満足していた。
故に立教大学という土壌の特徴なのか、入学後早々に回りが第一志望では無いという会話で盛り上がることに違和感を覚えた。
「良い大学」というのは何を持って決められるのだろうか。
受験生の多くが思うように、偏差値であろうか。
大学の持つ設備や、教授陣によってであろうか
その大学の輩出するOBの知名度によってであろうか
どの答えも100%の回答とは思えない。
しかし、他大学生と話す機会に恵まれている団体に所属している今までの経験から感じることは。主に
2点である。
①どれだけ偏差値の高い大学にも大学生かと疑うような学生(ここでは勉強へのモチベーションが少ないことをさす)はいるし、その逆もありえる。
②しかし一般に「良い」大学と言われる大学には自分で見ていて「すごい」と思える人間に会う確率が断然高く、そのための機会も充実している。
どこに行くにしても学生次第、というのは疑いの余地はない。
しかし、例えば素質的に何かの分野で一流になれる学生がその芽を出し始めたときに、彼、もしくは彼女をより輝かせる機会、仲間がより多くあると思えるのが、自分の思う「良い大学」である。そしてそれが結果として世間で言われる「良い大学」と概ね一致している。
また自分の経験で恐縮だが、大学生活の早い段階で手の届かないほどすごい、自分もいつかそうなりたいと思えるようような仲間と会う機会に恵まれたことが、現時点での自分の活動の大きな原動力となっており、またこのような経験は他の人にも当てはまると信じている。そして、その経験はどこでも得られたかというと、そうではない。立教大学と言う比較的「良い」大学だからこそ得られた機会であった。
志望大学に合格できたか、希望の就職先に内定したか、と言うことでその後の将来が左右されるかのようなプレッシャーにさらされる。 自分は大検と言う背景から来たからこそ思うに、あまりに多くの人が上を見据えすぎているように感じる。少しでも上へという気持ちは忘れてはいけないが、それは後ろを振り返らないということと同じではない。 結果として上へと行くことが出来なかった自分を責める前に、今の立場に至ることすら、様々な状況から許されなかった人々を考えるべきではないか。
話がずれたが、「良い」大学にいる以上、その環境を活かさない手はないし、活かす責任がある。なぜなら今この環境は各人が何より分かっているはずだが、あまりに多くの人々のサポートに依拠している。その人たちのために自分たちに出来るのは、この与えられた環境を最大限活用し、楽しみ、かつ成長し、かつ還元することだ。それが「良い」大学で「良い」大学生活を送ることであると信じている。
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