もはや当初の目的からだいぶ脱線した投稿が続く・・・
タイトルの本を読んでいて、まったくの引用ではないが、共感出来る文が出てきたので自分の考えと合わせつつ紹介。
例えば一年前の段階の自分は、その時の一生懸命になれるもの(当時は演劇)があり、充実していて、楽しかった。自分の周りの小さなコミュニティで活動し、ベストを尽くし、言うまでもなく最高に楽しんだし、良い経験だった。それは、それ、今は、今、である。
この一年で、映画、現在自分のいる団体での機会、授業、様々なことを学んだ。あまりに「学んだ」とか「成長した」とかを使い過ぎて(実際学んだし成長もしたが)、最近は軽率にそんな言葉を使い過ぎる。
自分でも成長を実感する一方で、周りが見えてきた分自分と同世代で圧倒的な視野やすごさを持っている人にも会う機会も多かった。最近思うことは、ある意味大学での特に最初の一年、「成長する」のは当たり前である。別に自分が100回「成長した」を繰り返しても、その分余計に成長するわけではない。最近チームで活動することが多くなり、頑張っている仲間に「がんばって」とか」「自分に出来ることは言って」とか機械の如く繰り返し言うが、では「成長した」自分に何ができて、どう助けられるのか、すごく限られている。 第一、自分に「がんばって」と言われたからといって、劇的に元気になったり、新たな力がわいてくるほど、今の自分の周りにいる仲間は弱くない。
今一番しておきたいことは、どんな形であれ、手助けを求められたときに、対応出来る自分の力をつけ、余力を確保しておくことだ。
長い意味不明な前置き
今日、タイトルの本から何を伝えたかったかとういと、自分の今の生活の「軸」となっているものを明確にしたかった。時折思うのは、自分は何が楽しくてこのような、いわゆる「カタい」ことに関する本を読み、そんな団体に所属し、そんなことを考えるのか。はっきりしていることは、それが自分を動かす大きな原動力であり、何より安心するからである。
例えば、ジェノサイドに関して、善悪などとっくに分かっている。だがそれでもこの問題についての本を読むのは、知ってしまった以上、無視するのが、その存在そのもの、そして自分のそれとの関係以上に恐ろしく思えるからである。自分の話を聞いてくれる人みんなに言うことだが、このことを四六時中考える器は自分には無い。だが頭の片隅に置き、自分の行動が何かしら繋がり、自分が救いたい人たちの解決に繋がっていると意識した上での行動は、自分にとって「楽しい」し、「軸」がある。知ってしまったが為(後悔はまったくしていない)、もうその光景を忘れてしまうことが怖い。だから何かとこじつけや矛盾も多いのを知った上で、自分の行動をつなげようとする。何故なら理想があって、それに自分が近付いていることを意識しながら動くことが、何より安心するし、そういう考え方をしないと長続きしないと思うから。
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11 年前
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