2008/01/29

過去

前回が大学の話を書いたので、今回は自己紹介も兼ねて大検について書いてみようと思う。

前回に続いてニュース性という意味では乏しい文章になってしまうが、更新が一週間単位という時点ですでに時事的な事象を継続的に書くことは放棄している状態なので、やむを得ない。

さて、大検である。

正式名称は大学入学資格検定で、現在の名称は高校卒業程度認定試験に移行しており、自分がこの資格を取った際2005年ではちょうどこのシステムの過渡期にあったのだが、自分が普段自称する際は大検の言葉を使っているため、今回もこの言葉を使うが、現在の高校卒業程度認定試験とシステム的には大きな違いはないと理解している。
ウィキペディアによると下記のような説明になる。

「大検」
高等学校未卒業など何らかの理由で大学入学資格を有しない者に対し、高等学校を卒業した者と同等以上の学力があるかどうかを認定するために検定を行って、合格者に大学入学資格を与えるものであった。


このブログを見ている方は、理解度の差はあれ、自分が大検というシステムを経て、現在の立教大学にいることを知っていると思う。
入学当初の当たり障りのない会話では、出身高校や生まれは最も頻繁に登場するテーマの一つであったが、意外に周りが自分の経歴を語っても驚かないのが逆に少し拍子抜けしたようなきもした。
思えば大学という場には様々な経歴で入ってきた人がおり、僕の経歴も人と違うとはいえ、特別驚かれるようなことでも無かったということなのだろうか。いずれにしろ好都合だった。

とはいえ、今は自分の中で考えも説明の仕方も整理できたといえるが、当初は色々と葛藤もあったと記憶している。
事実、大検は「違う」のである。この違いを無理に説明(強調?)しようとしすぎたことが、半年前の自分の失敗の一つであったと思う。
繰り返しになるが、大検は「違う」その思いは今も変わらない。
しかし以前と違うのは、そのことに今の自分は+も-の感情も持っていない。
大検云々にかかわらず、多かれ少なかれ誰しもそうであるように、ただ見てきた世界、通ってきた道が違うだけである。
大検を経て大学に入ること、いわゆる全日制の高校での3年間を経て大学に入ること、どちらが良いということを話しているのではない。両方のやり方にメリット、デメリットがあり、どちらが優れたシステムという話ではない。多くのマイノリティは現実問題としてその「違い」から差別、迫害を受けることはあっても、良い意味での「違い」を強調されることは少ない。しかし幸いなことに、自分の「違う」経歴に関しては、卑下することではないが、誇るほどのことでもない、自分は大検を利用してここにいて、それ以上でも以下でもないのだ。
ここまでの短い大学生活でも、下手に自分が違うことを強調して、思えば「こんなにあなたと違うのだからそういう風に見てくれよ」と言うことを言ってある種の特別扱いを受けたかったのかもしれない。
しかしそうして自分を今思うとやや不器用なやり方で知ってもらおうとする過程で、友人に「それがなんなの?」と言う言葉をかけられた。その言葉は何のためらいも無く、出されたものであったがゆえに、一気に肩の力が抜けた気がした。故に方法としてもっと適切な伝え方はあったかもしれないが、口に出して自分を表現しようとしたことに関しては後悔はしていない。

一方で社会全般で見るならば、全日制の方が圧倒的なマジョリティであり、従って人々の見方は当然それを「フツウ」、大検(大検に限らず、マイノリティにありがち)を「フツウでない」という前提の元に考える。
くどいようだが、そこに大学に入った時点でそこに優劣の違いはないと考える。ただ現実多くの人の見方は、このようになっているということを、経験から知っている。
ここに一つ改善の余地があると思えるのは、多くの人が、同列の選択肢としてすら大検や、他の方法を想定していないように見えることである。現実として社会的な認識が大検=フツウでない=引きこもり、不登校、二―トというマイナスのイメージを連想している限り、多くの人にとって大検の認知度は向上しないであろう。
しかし、高校に行けなくなった高校生たちの受け皿という、低列におかれた現在のイメージから、高校という選択肢、大検という選択肢というように同列で考えられるようになることによる産まれるものは、大きいはずだ。
選択肢はいくらあっても困ることはない。
現実高校生の年代の子供たちに、フツウの高校以外の方法で大学に入る選択肢があることなどを知る機会は、まず無いだろう。しかし一つの選択肢として、親、メディアなどが提供することは子供たちにメリットこそあれ、何の害も無いと思える。

くどいようだが、どちらが優れているというレベルではない。選択肢が他にもあるのに、元より考慮せずに苦悩することはより多くの情報を持つことによって避けられるといいたいのである。

やや私見の強い文章が2回続いたので、次回は何かのニュースを元に、客観的な視点を交えて書きたいものだ。

2008/01/20

一年前を思う

幼稚園の頃から長い付き合いになる友人に、センター試験激励のメールを送っている自分がなんだか不思議に思えてきた。

彼とはいまどき珍しい家族ぐるみの付き合いで、自分と対照的な道を歩みながらも常に連絡を取り続けていた。自分が早々にホームスクールを始めたのと対照的に、彼は家族の方針もあり自分から見るといわゆる優等生であった。途中自分が海外にいたこともありやや疎遠になったが、帰国後も変わらず連絡を取り合った中だった。そして去年、自分は大検という道から大学に合格し、彼は浪人した。

自分にとって大学という機関はなぜか幼いころから変わらず魅力的であり続け、願望もあった。

だからどれだけ途中の義務教育を飛ばしていたとしても、大学に行きたいというモチベーションを常に一定以上に保ち続けたことで、ここにいて、満足していた。

故に立教大学という土壌の特徴なのか、入学後早々に回りが第一志望では無いという会話で盛り上がることに違和感を覚えた。
「良い大学」というのは何を持って決められるのだろうか。

受験生の多くが思うように、偏差値であろうか。
大学の持つ設備や、教授陣によってであろうか
その大学の輩出するOBの知名度によってであろうか

どの答えも100%の回答とは思えない。
しかし、他大学生と話す機会に恵まれている団体に所属している今までの経験から感じることは。主に
2点である。

①どれだけ偏差値の高い大学にも大学生かと疑うような学生(ここでは勉強へのモチベーションが少ないことをさす)はいるし、その逆もありえる。
②しかし一般に「良い」大学と言われる大学には自分で見ていて「すごい」と思える人間に会う確率が断然高く、そのための機会も充実している。
どこに行くにしても学生次第、というのは疑いの余地はない。
しかし、例えば素質的に何かの分野で一流になれる学生がその芽を出し始めたときに、彼、もしくは彼女をより輝かせる機会、仲間がより多くあると思えるのが、自分の思う「良い大学」である。そしてそれが結果として世間で言われる「良い大学」と概ね一致している。

また自分の経験で恐縮だが、大学生活の早い段階で手の届かないほどすごい、自分もいつかそうなりたいと思えるようような仲間と会う機会に恵まれたことが、現時点での自分の活動の大きな原動力となっており、またこのような経験は他の人にも当てはまると信じている。そして、その経験はどこでも得られたかというと、そうではない。立教大学と言う比較的「良い」大学だからこそ得られた機会であった。

志望大学に合格できたか、希望の就職先に内定したか、と言うことでその後の将来が左右されるかのようなプレッシャーにさらされる。  自分は大検と言う背景から来たからこそ思うに、あまりに多くの人が上を見据えすぎているように感じる。少しでも上へという気持ちは忘れてはいけないが、それは後ろを振り返らないということと同じではない。 結果として上へと行くことが出来なかった自分を責める前に、今の立場に至ることすら、様々な状況から許されなかった人々を考えるべきではないか。       

話がずれたが、「良い」大学にいる以上、その環境を活かさない手はないし、活かす責任がある。なぜなら今この環境は各人が何より分かっているはずだが、あまりに多くの人々のサポートに依拠している。その人たちのために自分たちに出来るのは、この与えられた環境を最大限活用し、楽しみ、かつ成長し、かつ還元することだ。それが「良い」大学で「良い」大学生活を送ることであると信じている。



                                

2008/01/15

メディアリテラシーは普及したといえるのか

次期大統領候補をめぐる争いが連日ニュースをにぎわす一方で、任期を残り一年としたブッシュ大統領が、中東平和の実現に向け各国を歴訪している。
アフガニスタン、イラクへの攻撃に代表されるブッシュ政権への中東への介入は、今思えば日本でテレビ越しに見ていても非常に印象的であり、賛否両論あるにせよ、少なくとも自分の周りにいる人間は自分を含め批判的に見ていた。ここで、圧倒的多数の人々が2つの戦争を否定的に捉えている=ブッシュ政権の判断は失敗だったと結論付けるのは簡単かもしれない。
しかしここでブッシュ=悪、戦争反対派=善という2項対立を設定してしまうのは、まさに開戦直後に多くの米国民がフセイン=悪、それを征伐するアメリカ=善という概念の元に、思考停止に陥ったという過ちを繰り返してしまうのではないか。
大衆の意見を作る際、いわゆる「世論」の流れを意図的にある方向に形成しようとする際、誰にもわかりやすい2項対立(戦争においては善悪の2つが主流)を設定して、人々のステレオタイプを増長させるというのはいつの時代も扇動をする人物の常套手段で、かつ変わらず効果的であった。
今を生きる私たちにできるのは、溢れんばかりの情報を選別し、メディアにコントロールされるのでなく、メディアをコントロールして思考を深めることだ。
このようなことは特に「メディアリテラシー」という言葉が使われるようになってから頻繁にいわれ続けてきたことであるのに、元から情報を集めようとする姿勢すらしない人々がこれだけ多いのはなぜなのだろうか。
あまりに非日常的で現実味がない→興味がない→動こうとしない
という日本にいる限りある種避けられない環境がまだまだ存在するということは、「メディアリテラシー」の普及度も言うほどではないのかもしれない。
自分も大学に入るまでは耳にしたことなどなかった。耳したことがあっても興味のない人にとっては
その人にとって重要な種々雑多な他の情報にすぐに流されてしまうだろう。

自分が何がしたいのか
それは山積する諸問題に対して、意識がない、もしくは限りなく0に近い人々の意識を喚起し、ひとつの方向に向けさせることである。
人間はひどいこともする、しかし、歴史的に見て人間はすばらしい能力を持っている。
日本人を例にとると、戦後「発展しよう」という国民の気もちを限りなくひとつに近い状態にまとめられたことで、この急速な発展があった。

ならばなぜ世界の人々の「平和でありたい」といいう気持ちがひとつになったときに、達成できないのできないであろうか。 どれだけ理想、夢想と思われても、そう願い、自分に出来るアプローチを模索することだけは、どれだけ謗られても変わらない。

2008/01/03

ケニヤでホロコーストの懸念


http://edition.cnn.com/2008/WORLD/africa/01/02/kenya.rally/index.html?eref=rss_world

最近CNNのニュースで毎日のように大きく報道されるニュースがある。
ケニヤの次期大統領選で、僅差で勝利したと伝えられている現職のキバキ大統領の再選に対し、野党のオディンガ候補が「不正があった」と異議を唱えたことから、オディンガ候補の支持者を中心にデモなどで多数の死傷者が出ているようである。

このニュースは大分前から知っていたが、日本にいる自分たちにとって、アフリカという地域のニュースは、海外でも特に現実離れしているような感覚で受け取る傾向があり、これまで取り上げなかった。

しかし、自分が書くことにしたきっかけは、この混乱を避け教会に避難していた民間人少なくとも50人が、暴徒化したオディンガ氏の支持者たちによって教会ごと放火され、死亡したというニュースであった。
50人には、女性や子供も含まれていた。
一連の混乱には様々な要因が複雑に絡んでいることだけは確実だが、CNNによると
Much of the violence is between supporters of Kibaki, from the majority Kikuyu tribe, and backers of Odinga, who is from the Luo tribe.
やはりここにも私たち日本人には想像しにくい民族の問題が絡んでいるようだ。
多数派の部族、キクユ族の支持基盤に持ち、自信もその生まれであるキバキ氏に対して、やはりルオ族の生まれで、ルオ族を中心に支持を得るオディンガ氏。
今回の教会の事件では、このルオ族の支持者の一部が犯行に及んだようである。
アフリカで、民族問題による事件というとやはり1994年に起こったルワンダでのジェノサイドを思い出さずにはいられない。
ケニヤの件はルワンダでのジェノサイドのときほど、部族間の人数において大きな差があるとは言えない点で異なるが、アフリカ諸国でも例外的に治安、経済的に安定してきているというイメージの強かったケニヤでのこの混乱は、アフリカの未来が依然不透明なことを再認識させられる。

そもそも~族といった概念は、日本人が単一民族である、無いという議論とは別にして、今を生きる私たち日本人には実感を持って感じることは難しい。
パスポートに「大和民族」「琉球民族」と書かれる姿など、想像も出来ない。
しかし現にルワンダでの民族紛争ではそういった理由をもとに、生死が左右されたのであり、今回のケニヤでも問題の一つの中核をなしていると自分では思っている。
この複雑な問題についての意見を書くには、まだ知識が足りないようなので割愛するが、環境問題、貧困問題等と違い、自分にとって解決の糸口がより見つけやすいと感じられるのは、自分が実感を持てていない何よりの証拠なのだろうか