2008/02/24

「ジェノサイドの丘」を読んで

もはや当初の目的からだいぶ脱線した投稿が続く・・・



タイトルの本を読んでいて、まったくの引用ではないが、共感出来る文が出てきたので自分の考えと合わせつつ紹介。

例えば一年前の段階の自分は、その時の一生懸命になれるもの(当時は演劇)があり、充実していて、楽しかった。自分の周りの小さなコミュニティで活動し、ベストを尽くし、言うまでもなく最高に楽しんだし、良い経験だった。それは、それ、今は、今、である。



この一年で、映画、現在自分のいる団体での機会、授業、様々なことを学んだ。あまりに「学んだ」とか「成長した」とかを使い過ぎて(実際学んだし成長もしたが)、最近は軽率にそんな言葉を使い過ぎる。

自分でも成長を実感する一方で、周りが見えてきた分自分と同世代で圧倒的な視野やすごさを持っている人にも会う機会も多かった。最近思うことは、ある意味大学での特に最初の一年、「成長する」のは当たり前である。別に自分が100回「成長した」を繰り返しても、その分余計に成長するわけではない。最近チームで活動することが多くなり、頑張っている仲間に「がんばって」とか」「自分に出来ることは言って」とか機械の如く繰り返し言うが、では「成長した」自分に何ができて、どう助けられるのか、すごく限られている。 第一、自分に「がんばって」と言われたからといって、劇的に元気になったり、新たな力がわいてくるほど、今の自分の周りにいる仲間は弱くない。

今一番しておきたいことは、どんな形であれ、手助けを求められたときに、対応出来る自分の力をつけ、余力を確保しておくことだ。



長い意味不明な前置き



今日、タイトルの本から何を伝えたかったかとういと、自分の今の生活の「軸」となっているものを明確にしたかった。時折思うのは、自分は何が楽しくてこのような、いわゆる「カタい」ことに関する本を読み、そんな団体に所属し、そんなことを考えるのか。はっきりしていることは、それが自分を動かす大きな原動力であり、何より安心するからである。

例えば、ジェノサイドに関して、善悪などとっくに分かっている。だがそれでもこの問題についての本を読むのは、知ってしまった以上、無視するのが、その存在そのもの、そして自分のそれとの関係以上に恐ろしく思えるからである。自分の話を聞いてくれる人みんなに言うことだが、このことを四六時中考える器は自分には無い。だが頭の片隅に置き、自分の行動が何かしら繋がり、自分が救いたい人たちの解決に繋がっていると意識した上での行動は、自分にとって「楽しい」し、「軸」がある。知ってしまったが為(後悔はまったくしていない)、もうその光景を忘れてしまうことが怖い。だから何かとこじつけや矛盾も多いのを知った上で、自分の行動をつなげようとする。何故なら理想があって、それに自分が近付いていることを意識しながら動くことが、何より安心するし、そういう考え方をしないと長続きしないと思うから。

2008/02/13

W.リップマン「世論」を読んで

今日は少し脱線して、現在呼んでいる「世論 上・下巻」w.リップマン著 から学んだ報道の引用を数点。
「まず第一に、ニュースは社会状況の全面を映す鏡ではなくて、ひとりでに突出してきたある一面についての報告である」
また、
「読者に届けられる新聞は、ひと通りの選択が全て終わったその結果である。どんな項目を印刷するのか、それはどの場所に印刷するのか、それぞれがどれほどのスペースを占めるようにするか、それぞれがどんな点を強調するか。このような選択にあたって客観的な規準といったものはない。あるのは慣例である」

この二つの文には、自分の持っていた報道への概念が大きく突き崩された。
例えば、自分が日々目を通して知った気になっている世界はすでにある立場にいる人によって取捨選択を熟考の上になされた世界ということになる。
しかしこの文は新聞の負の側面をつきはするが、それは新聞を読むこと自体を否定するものでは断じてないと解釈している。彼は、W.リップマンが言いたいのは、これほど当然の如く日々の自分たちが目を通し、また多くの人がそれすらもしない新聞というものの、難しさ、社会的評価の乏しさを説いている。
また、リップマンは他の分野と比較して医学、工学、法学などのレベルまでこの職業を高めていくような努力が今までほとんどなされてこなかった理由は、いったいなんであるかを説いている

2008/02/08

中国ギョーザについて

我が家の近くにも、自分がよく利用する餃子屋がある。
先日前を通りかかったところ、ドアに張り紙で「当店の餃子はすべて国内で~」とお決まりの文句が書かれてあった。
さて、噂の餃子事件である。被害者が出たのが自分の地元でもある千葉県であり、いわゆる「生協」、生活協同組合の食品も以前は頻繁に我が家の食卓に並んだこともあり、ただ事ではない。

中国産食品のトラブルは今に始まったことではないが、この事件がこれまでの前例に比べて大きく取り上げられるのは、その「リアルさ、身近さ」にあると感じられる。
時に不安を覚えるほどの中国産食品類の安さの裏には、数々のスキャンダルも相まって誰しも何かあるという意識はどこかに持っていたはずである。
しかし、例えば段ボール肉まんがあくまで基本的には海の向こうでの事件での事件であったのに比べ、今回の餃子事件はまさに日本人の一般家庭の食卓から、一般的な餃子という食品から被害者が出たという点で、大きなインパクトを持っている。
今回の一件が決して軽いという訳ではないが、概してこういった事象は日々の積み重ね、ここでは日本人の中国産食品に対する不安の蓄積が、一つのきっかけで大きく噴出した形ではないか。

「中国製品を買うな」というのは簡単である。
しかしそれはあまりにミクロの視点に立てない立場からの意見であり、第一何の解決にもならない。
消費者に対するインタビューで、マイクを向けられた母親が誇らしげに「ウチでは中国製品は買わないことにしてますから」と語る。一母親としては至極よい心がけで、よき主婦として映し出したいのだろうか。 しかしこのような事件で、犠牲になるのは中国産の製品を買って家計を切り詰めようとする中~下流の家庭であり、日々の食卓が純日本産の材料からなる料理が日々出される家庭ではない。

有機栽培、オーガニック、昨今の健康ブームに伴い、これらの「健康さ」を喧伝する商品が確実に増え、実際に利益を上げている。
しかしこれらの栄養に満ち溢れた食生活を送るためには、東西を問わず経済的な余裕が求められる。
アメリカでも名だたる著名人がベジタリアンを志向する一方で、安く危険なファーストフードに経済的にも依存し、望まずとも体を壊すような状況に間接的に追いやられるのは貧困層の人々である。

安さと安全、同じ「安」という字を使っていても、両立することの難しさを感じさせられる一件だった。